ちょっとだけがんばってみる

ちょっとだけがんばってみる、というのが大事だなと思った。

 

朝、早起きするとか。明日着ていく服を寝る前に準備しておくとか。いつもより一回分多く腕立てするとか。

あんまり最近、「がんばる」ってことをしていなかった。

「がんばる」っていうのは、少し先の利益のために、いま、しんどいほうの道を選ぶっていうことだと思う。

だいたいいつでも、しんどいほうと、しんどくないほうの二択の岐路に立っている。ここに気付くこと、自覚的であり続けることがとても大事で、とても難しい。

ただ息をして立っているだけでも、少ししんどくて正しい道と、少し楽でわずかに正しくない道が、目の前に分かれているはずだ。

姿勢良く息深く、立ちながらにして瞑想に耽り功を練る……ことは、できるはずなんだけど。

 

なかなか、選べない。

たぶん選択肢は、大きく分ければ「しんどいほう」と「しんどくないほう」で二つなんだけど、ほんとはもっと細かく分かれていて、「めっちゃしんどい」のもあれば「ほんのちょっとだけしんどい」のもあるはずで、その、ほんのちょっとだけでいい。

 

そして、ほんのちょっとだけ、のほうを選んだら、心の中で自分を褒めてあげて、誇らしく思ってあげる。

ほんのちょっと、でもしんどいほうを選べた、って実績が次の選択を後押しするはずだから。

 

①二択に気付く

②ほんのちょっと、しんどいほうを選ぶ

③誇らしく思う

 

こういうふうにして、たとえば一週間だけ、がんばってみようと思った。

 

神々との対話

神様がいるらしい。

前職のスタートアップではお目にかけなかった神々が大企業にはいらっしゃって、神々との対話にはいろいろとルールがあります。

これを守れないと理不尽の鉄槌を頂戴する。

神々との対話の仕方を知らないと、損をする。

 

自分は人だから、たぶんあの、方々が神様なんだと思う。

コミュニケーション能力がなっていない、ってよく言われる。

それは間違っていなくて、僕は神様とのコミュニケーションがなっていない。

神様を人のように扱うのは、大変失礼にあたる。

 

神々との対話法を身につけるのには、一定のメリットがあって。

そうすると、この世界に跋扈する神様たちに運悪く遭遇したときに、コミュニケーションが取れるようになる。

きちんと身につけておかなかった場合、理不尽の鉄槌を頂戴する。

理不尽の鉄槌は理不尽なので、コミュニケーション能力とか一切関係なく降り注ぐものだけれども。

 

神々は、ときどき正しいことも言う。

だいたい、意味のないようなことばっかり言っているけれど、薬になりそうな部分だけ、聖言にして、大事にとっておいてもよい。

そんなに、重要なもんでもないけど。

 

大企業には神様がたくさんいるみたいで、ともかく、意思疎通が図れるようになりたいな、と思いました。

心からの距離と言葉の新生児

ブログって、誰か第三者に向けて書いているという体の、セルフセラピーなんだと思います。

完全に好き勝手書き散らすのとは、やっぱり重みが違う。言葉の跳ねっ返りというか。ぽーんと放った言葉の、残響みたいなものの粘っこさが違う。

 

ちょっとわからないよね。

 

まあそれはそれでいいんだと思います。たぶん今まで心地よいと思って散々書き散らしてきた言葉っていうのは、心から生まれて間もない言葉の新生児で、それらはあまり、書き手の自我めがけて反響してきたりしない。

 

ちょっとまた、煙に巻いた。

 

ので、このあたりの「言葉の種類」を分類してみる。こういうその場のノリで進めていく思考実験・思考遊びはけっこう面白いし、生産的なことしているような気持ちにさせてくれる。

そういう気持ちにさせてくれるっていう点において、セルフセラピーとしては何かしらの価値になっているように感じます。

 

言葉の新生児。心からの距離。その話。

 

① 心内語(あたまの中でごにゃごにゃセリフを述べています)

② 心内記述(思ったことをジャーナリングでリアルタイム実況した雑記です)

③ 独白(第三者に向けて語っている体で結局独り言です)

④ 表明(第三者に伝えるために整理され磨き込まれた記述です)

 

あまりきれいに整理しきれた感覚がないですね。

「心内」ときたら「心外」で区分したかったんですけど、「独白」っていうワーディングがすぽっとそこにハマってしまって。

まあいいか。まあいいや。

 

これ、僕は今まで②ばっかりやっていたように思います。

ちゃんとブログで意見表明して、考えを整理して、こう、「ザ・情報発信」している方々は大変な苦労をされていると思います。

それが自然とできるようになるといいなということで。

そこに向けて少しずつ言葉筋を鍛えていく意味で。

③寄りの、やっぱり②なんだろうな。でももっと、③とか④のような記事を増やしていきたいと思います。

やっぱり心から遠いところへ、本気で伝えようとする言葉って紡ぐのすごい大変だし、でもそういう言葉でないと、誰かへはきっと届かない。

届かなくても価値があるよ、なんて思うのは上述したとおりの、セルフセラピーとしての価値だけで、そこに責任はない。

届けること、に責任を持たれていない言葉って、すごくノイジーだと思う。

 

「うっわこのおじいさん述べてんな〜〜〜、ダダ漏れだな〜〜〜〜」

ってなる。

引いちゃう、どころじゃなくてうざい。

そうだ、無責任に「これは自分にだけ意味のある言葉なんです〜」って書き散らした駄文は、無価値なだけじゃなくて有害だ。

読む人をイラつかせる。

 

誰かに届くことを前提とした何かを、書くようにしないといけない。

なんでそうしないといけないかというと、そうしないと僕は有害なものを書く人間になっていくからです。

有害なものを書く人間は、有害です。

 

書いてみると思考が生まれる。僕は今こう思った。

なんか違うな?

って。

この「なんか違うな?」は言葉にしてみたいと思った。もし有害になるとしても。

有害じゃない、良い言葉って何か、を定義しようとしたらきっと「分かりやすくてよく整理・校正された文章」ってなると思います。一旦これで良しとさせてください。

この定義であぶれるものに、僕は価値を感じているようなのです。

なんというか、コンテンツとは全く別のところにあるもの。

 

---コンテンツ:中身、趣旨、言いたいこと、意見、ロジック、文脈

---デリバリー:表現方法、言葉尻、助詞、言い回し、行間、段組み

 

デリバリーだと思います。

同じことを言うにしても、もうちょっと素敵に、さらりとおしゃれに、盛り付けたほうが気持ちよくないですか。

たぶんそこの部分って、本質を重視する人にとっては余計でノイジーな修飾で、実際、余分な脂肪なんだと思います。極力削ぎ落とすべきです。ビジネスとか実務とか、「実」が絡んでくる世界では。

一方で、無駄が価値になりえてしまう「芸術」のワールドでは、ほんのささいな言い回しや句読点・改行にも市民権がちゃんと与えられる、と思うんです。

 

思うんです」が「思うのです」でも「思います」でも「思ってます」でも「思うんだ」でもないとき、そこにそれだけの味わいの違いの認められること。

認められるワールドで、言葉を書きたいなと感じるのです。

僕はそこの味わいの、使い分けがなんとなく好きだからです。

かっこいいな、とかイケてるな、とかつよいな、とかいろいろ感じるのです。

そのようわからん感覚質を、宝石のように大切にしており、その宝石がそれなりに価値を持つ場所で、言葉を編んでいきたいと思うのです。

 

ここまで書いた今、マトリクスを作ることができ、そうすると思考遊びは一定の成果を得たと言ってよいと思います。

 

[心からの距離が近い] --- [心からの距離が遠い]

[コンテンツに価値] --- [デリバリーに価値]

 

この四象限を考えるのは楽しそうですね。

ビジネスでは、「心からの距離が遠い」言葉が使われていて、「コンテンツに価値が認められる」というワールドですね。

出版物の小説だと、「心からの距離が遠い」言葉(他人が読めるようにきちんと整理されています)で、「デリバリーに価値が認められる」というワールド。

誰にも見せないオリジナル小説やツイッターの呟きは、「心からの距離が近く」(だから自分以外には有害)、「デリバリーに価値が認められまくっている」とかいうワールド。

そうすると最後の一象限はどうなるでしょうか。

「心からの距離が近く」、だから自分の思ったまんまを書くわけですね、あるいは思うだけの心内語であってもよくて、かつ「コンテンツに価値がある」というワールド。これ、思考そのもの、ロジック、だったりするのかな。人に理解させるつもりはないし、他人と同期も取れないけど、自分では納得している論理、みたいな。

 

ふんふんふん。

ワーディングを磨けば、もうちょっとマシな整理になったろうと思います。

今度また、他人のつもりで読み返してみようと思います。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

読書会に行ってみた話と行動が大事だよねという話

この間、読書会というものに行ってきました。
最近ブロックチェーン周りの勉強会にやたらめったら出まくってたら、
こんな読書会やってるんですけどよかったら来ませんか?」ってお誘いを受けた。


二人に。
全然別々の勉強会で。


で、その読書会のお誘いを同じ週末の土曜午前と日曜午前で引き受けて、
行ってみたら、たまたま同じ系列の組織が主催している読書会でした。


出てみて思ったことを書きたいと思います。


僕にとってはあんまり行く意味ないなーつまんないなーって印象でした。
そこそこ人数がいたので2卓くらいに分かれて、1卓8〜10人くらいだったかな。
それぞれが順番に、最近読んで面白かった本を5分ずつくらいで紹介してくって感じで。


うーん、何がしょぼかったんだろう。
そこに集まってる方々がちょっとイマイチだったっていうのもある。


でもなんていうか、そうやって土日に集まって「わたしたち意識高いよね!」「今度こーんなにすごい人が勉強会やってくれるんだってぜひ君も参加しなよ!」ってノリが、宗教みたいに感じた。


宗教は安心だ。
フォロワーは安心を得る代わりにどんどん弱っていく。
これはあんまり近づいちゃいけない香りだな、って思って連絡を絶ちました。


みんなビジネス書を紹介してた。
それはまあ、あんまりニッチなトピック持ってきちゃっても他の参加者に申し訳ないから、みたいな納得できる理由なんだと思う。


ビジネス書って、僕も最近落合陽一先生の「日本再興戦略」読みましたけど、こう、読んで「ほ〜〜〜ん」ってなるよね。
そういうのを、僕は本当じゃないって思っている。


ここにおいて何かが起こっているのは、その本を書いた落合先生とか、売ろうとしてマーケティング頑張った人たちとか、100冊購入して知り合いに配りまくってた大学生とか、その内容についてレビュー投稿してる人とか、そういうところにおいてのみです。


そういうのは”本当”だと思う。
行動とか価値が伴ってる。


行動が伴わないもの、現実に何も起きないもの、ってあんまり好きじゃないです。
こういう僕の意見っていうのも、書いてる僕にとってのみ”本当のこと”っぽいですが、それを読まれてる方がいたら「ほ〜〜〜ん」ってなると思います。


中国の孔子先生が、
「学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)」
と言いましたが、行動しなきゃだめだよな〜って思います。


読書会とかビジネス書の「それナニにもなってなくないですか」っていう感想と、「行動して現実に何か起こすのが大事だよなあ」という考えでした。

大学卒業とペルシャ絨毯と寂しさの話

今日東大を卒業しました。教育学部に入って、自分の努力とか選択に完全に満足できたわけではないけど、教わることができて良かったなって先生が二人います。

一人は図書館情報学のK先生で、もう一人は他大の美術教育専門のK先生。
イニシャル被ってるわ。

図書館情報学のK先生とお話しした。
学科の卒業証書授与のあと、「ペルシャ絨毯に興味がある人はこのあと研究室に来て下さい」って。

行った。
前もこういうふうにして、研究室にノコノコついてって、長いお話をいただいたことがある。卒論の中間発表のあと質問したら長引いて、それで。

K先生は正しい。
全部のことについて、僕が正しいと思う精度で、正しく正しい。
そして今日聞いた言葉がまだ反響していて、

 

「寂しい」

 

と。
やっぱりそうなんだ、やっぱりそうだよね、僕も寂しいし、寂しくなるんだね、その寂しさは一人異国に放り込まれたようで、チリもない孤独宇宙を漂うようで、それは、僕の共感を遥かに超えて、なんて寂しいんだろうと思った。
それで僕は、「やっぱりそうなんだ!」と「なんて寂しいんだろう」を抱えて、ちょっとその場でクルクル回転した。

目をつぶってたけど遠心力で涙が余計に滲んだ。

「一つずつ追えばいける」
「頭が良くなるとスッキリする」

とか言ってた。「一つずつ追えば」はその通りだと僕は思っていたし、思っていたようにK先生も思っていて、その符合に感動した。
「スッキリする」は安心した。それでOKだよね、って。

色んなことを聞いた。
ペルシャ絨毯の順目逆目の見方とか、畳み方とか、ダブルノットとシングルノットの堅さの違い、クルクウールとシルクの肌触り、とか。
行列の積の4種類の異なる描像とか、死刑制度の論理的不可能性とか、寂しさとか。

 

「内緒ですからね」

 

って言ってた。
ほんの一瞬口を滑らせただけなんだけど、ああやっぱりそうなんだーーーつら!つらすぎ!それ怖すぎ!
って。
何度も反響してる。

 

そりゃ、偉大な先人たちと語らいたいよな、って思った。
マーガリンとアミノ酸とシュ?シなんとか?なんだっけ……砂糖に関係する何かだったと思うんだけど、それが入ってる食べ物以外なら差し入れOKだって言うから、働き出してまた何年か、何ヶ月かしたら挨拶ってことで話を聞きに行こう。

聞きに行こうと思います。

ショ糖だっけ?なんか違ったような。なんだっけ。

飲食店はもうちょっとセルフサービスの割合増やして良いと思う

大戸屋にオーダー用タブレットが導入されていました。
これ、なんで食券にならないんだろう。

 

①オーダー
②会計

 

これ、お店にとってもお客にとっても面倒くさいし、食券システムにしちゃえば①も②も一瞬で片がつくのに。

 

食券システムだとゆっくりメニュー悩めなかったり、行列できちゃったりするから良くないのかな。

 

いやでもさ、待ってよ。
もし僕がお店のオーナーなら、食券の機械2〜3個置いておいて、席にもメニュー置いておくと思います。
自分の席でゆっくり悩んで、決めてから食券買いに行ってください。
オーダーと支払いを同時に済ませてください。
そこに人件費かけたくないので。

 

「なんでそうしないんだろう?」っていう、原因に迫っていく思考と、
「僕だったらこうするな」っていう、空想を膨らませていく思考と、

ここで分岐が起きる。

 

空想のほうがワクワクするのでそっちでいいや。

 

地元のほうに、魚べいっていう寿司屋があって。
そこだと
①オーダー:タブレット
②会計:レジ
③配膳:新幹線
みたいになっています。

 

新幹線っていうのは、こう、お寿司が回りそうなレーンをびゅーんと、一直線に席のところまでぶっ飛ばしてお寿司の皿を持って来てくれる機械。

 

速くていいよね。

 

まあそこまでしなくてもって感じある。

 

富士そばとか好きだよ。
①オーダー:食券→手渡し
②会計:食券
③配膳:セルフ
みたいな。

 

もっと色んなことを、お客にやらせてあげればいいと思う。

 

東大近くの松屋は、もうちょい先を行ってた。
①オーダー:食券→自動転送
②会計:食券
③配膳:セルフ
まあ食券システム使ってるなら、さくっと厨房にオーダー飛ぶところまでがデフォルトでしょ。

 

あれ?じゃあ「僕の考えた最強の人件費削減」は松屋のシステムでいいのかな。
あのセルフ松屋、どっか足りないところないかな。

 

机拭くのとか、食器返却の時のお皿整理・ゴミ捨てとか、そのへんもセルフでやらせましょう。
学食だとそんな感じだった。
で、Thank you for your cooperationをちゃんとできさえすればむしろプラスなんだと思う。

 

良いことしてあげた、って気分の良いものだからね。
そういう設計にしたいな。

ブログを始める理由と意気込み

ブログを書き始めようと思った。

誰かが読むかもしれないと知って押すキーボードが、こんなに重いと思わなかった。

自分向けに書き散らす言葉は何千と続くのに、架空の読者が行ごと単語ごと厳しく校正してくる。

 

何か本当のことを書きたいと思った。

僕はなんか、あの言葉だけの、テンションだけの、自己啓発とかくそだるいなと思った。

そういうの嫌いなんだ。

 

割りと思ったことをそのまま書こうと思う。

思ったことはそれはそれでよくて、あとできるだけやったことを書こうと思う。

僕は背が低くて、東京大学を今月卒業して、年収1000万円がほしい。

 

モテたい!

 

モテたいというか愛がほしいよね。

お金だけじゃなくてそりゃ楽しく働きながら稼ぎたいよね。

仕事に運動に芸術に精を出して、まあまあ良い感じで。

 

ちょっと違う、僕がしたいな〜やりたいな〜って思ってることはやっぱりもうちょっと違う。

こう、色々ハッピーな感じで、世の中に愛されてきたような羨ましいひとたちをグシャ!って蹴散らしてやりたいです。

そういうことをそういうふうに思って、これまで頑張ってきたので、そういうことと、これから頑張っていくようなことを、書いていきたいと思った。